久しぶりのコラム「不自由が故に自由」

僕は結構漫画を読みます。最近話題の鬼滅の刃とかも、ジャンプで普通に連載として読んでいました。最初は絵柄がいまいち馴染めなくてまたなんか始まったなーぐらいであまり真面目に読んでいなかったのですが、あれ?意外と長続きしてる?ちょっと見てみるか・・・と読んでから結構ハマって過去にさかのぼって読んだりしました。

大ブームになったのはアニメが出てからかな。そもそもテレビの前でじっとしているのがとても苦手なのであまりアニメは見ないのですが、アニメが放送されてから漫画も人気が上がったと聞いて興味が出たので見てみたら、たしかにものすごい美麗な1枚の絵が動いているようなアニメで感激しました。これはブームになるのも納得だと。

その流れで映画ももちろん見てきたんですが、いやー、本当にすごいですね。大号泣。何度か見に行ってしまいそうです。

と鬼滅語り始めたらそれだけで終わっちゃうので本題に戻ります。

さて、タイトルにつけた「不自由が故に自由」はバガボンドという漫画を読んでいた時に出会った言葉です。

正確には

「お前の生きる道は
これまでも、これから先も
天によって完璧に決まっていて、
それが故に
完全に自由だ。
根っこのところを
天に預けている限りは…。 – バガボンド29巻 沢庵和尚のセリフ

という言葉だそうです(今調べた)

初めて読んだ時は「え?なんで?」決まっているのに自由ってどういうこと?と思ったら確か主人公の武蔵も同じような反応をしていて共感を覚えたような、、、と書いてたら旧に自信がなくなってきた。あれ、どうだったっけ?今度読み返してみます。

で、その時はよくわからないなー、ぐらいで終わったのですがよほど心にひっかかっていたのでしょう、なぜか事あるごとにこの言葉が思い出されます。

皆さんは運命というか天の采配というか、そうした明日自分が行う行動が決まっている、ような話って信じられますか?

僕はどちらかというと自分の判断は完璧に自分の内側から出てくるもので、他人の、ましてや天の神様なんていうよくわからない存在の影響なんてない!と思っています。これについても話し始めると長くなりそうなのでまた今度。

まぁそんな考え方をしているのでこの「天によって完璧に決まっている」というのはなんというか受け入れがたい考え方のように思えたのですね。

それから数年が経ち、今の仕事であるクライミングのコーチを始めました。
どこの組織にも属さずに個人でスクールの運営を行っているので、全ての時間は基本的には自分が思い通りにコントロールできる。
そんな完璧な自由を手に入れたはずでした。

何時に仕事をして、何時にご飯を食べて、何時に寝るか、いつ遊びにいくか。
それを全て自分の思い通りにコントロールできる。
これこそ学生の頃に思い描いた自由な生活だと。

それにも関わらず、ある日息苦しさを感じている自分に気が付きました。
完璧に自由なはずなのに、自分が思うがままに動くことができない。
目に見えない何かに縛られているような、そんな息苦しさでした。

これの正体は何なのか。
なんで自由なはずなのに縛られて感じるのか。

その時にまたこの言葉が思い出されます。

「生きる道が完璧に決まっているがゆえに自由。」

ハッと気が付かされました。

今の僕は不自由なのだと。自分の自分の枠組みを作らなければならない。
生きる規則を自分で作らなければならない。

常に何をするかを考え続けなければならない、何が必要かを考え続けなければならない。
これは自由ではなく、不自由なのだと。

枠組みがあって、なんらかの制限がなければそこからはみ出る自由が手に入りません。
規則があればそれを守る自由、破る自由が生まれます。

自分一人しかいない、なにもない真っ白な空間には自由は転がっていないのです。

でも、見方を変えれば自分の枠組みを自分で作る自由があります。
そうして作った自分の枠組みを変えるのも自由です。

どういう見方をするかは自分次第。
これも自由ですね。

物事には沢山の側面があります。
ある面から見たら不自由なことも見方を変えれば自由だと言うことができる。

自分にとって都合の良い面を見るのか、都合の悪い面を見るのか。
良い面ばかりを見ていても困ってしまうし、悪い面ばかりを見ていても元気がなくなってしまう。
その時その時で自分にとって必要な面を見る、不要だったりつらい面は見ないふりをする。
それも自由さですね。

話がだいぶ飛ぶのだけれど、今自分がやっている「のぼコン」というコンペにランク制度を導入しようとしています。
それを導入しようと思っていた時に、クライミングに階級みたいなものをつけるのは少し抵抗がある、という意見があったりもしました。
確かにその気持も僕はわかります。

クライミングってそういうものじゃなくて、もっと自由に楽しむものだと。

そのとおりだと思います。登る事は楽しい。その気持にまっすぐでいれば他人と比べるような事は必要ないと僕も思います。

一方で僕は競う事が好きなので、やはり人に先んじて課題を登りたい、より難しい課題を登りたいという欲もあります。
その証として高グレードの課題を登りたいと思ったりします。
過去の自分に打ち勝った、自分の成長の証だからです。

というか、僕は「グレード」というもの以外に自分の実力を測る指標を知りません。なので「グレード」の事とてもを大切に思っています。

一方でこの「グレード」というものがとても曖昧なものであることも知っています。得手不得手で大きく感じ方が変わりますし、地域によっても大きく変わります。同じ岩場でもあっちの岩の3級とこっちの岩の3級の難しさが全然違ったりする。
これはクライミングの良さである一方で悪さでもあると思っています。

自分の実力を正しく測る基準が曖昧。ものさしの長さが日によって変わるようなものです。
ある時は170cmだった自分の身長が、ある時計ったら150cmだったり190cmだったりする。
それでは困ってしまいます。

自分の心が元気で、自信満々であればモノサシは自分の中に確立されていますから、何も問題ありません。外のものさしがぐにゃぐにゃしていたって、自分の中にこれが1cm、という指標があればよいのです。
しかし、自分に自身がなくなってしまった時に頼るべきものが無いのは困ってしまいます。

自分を測る物差しが曖昧だから、人は「易しめの**」を登りたくなるんだと思います。登って安心したくなる。
その気持はとても良くわかります。
「あれー、この1級簡単だ!一撃できちゃったから本当は2級ぐらいなんだろうな」
なんて思いながら僕はよしよし、ちゃんと1級がサクッと登れたぞ、なんて思ったりしています。
背反です。

でも自分の実力がはっきりと明示されていたら。きちんとしたモノサシがあったら。
きっと「易しめの**」よりも「難しめの**」の方が価値を持つと思います。
易しめの**は自分の心のやすらぎにはなっても本当の成長に寄与しないのは誰でも知っています。

実力がはっきりと定められている、それを誰かが保証してくれる。
そんな不自由さがあるからこそ、「自由」にクライミングを楽しめるようになる。

そんな自由を「のぼコンランク」を使って実現したいと思っています。

不自由であるからこそ、自由なのです。